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岩城氏時代の中間郡・中島・西浜・前浜・米野の5区は、内藤家時代となった元和8年(1622)9月の調べでは、「小名・四倉の両所は御領内の大浜にして世俗小名千軒といい伝えしかとも、二千釜戸余を並べ」と漁業での大成がうかがわれますが、その全容とは、
5区であった小名浜は、貞享元年(1684)にいたって西町と米野の2区が、正式に扱われて、東から米野・中島・中町・西町が出来上がり、ここに小名浜4ヵ村とか、小名浜4町という名称が呼ばれ始めました。
それは、小名浜が独自の村落機能を持つ村ではなく、各々の村の上に冠される地名としての「小名浜」であったわけで、この例は磐城平城下町の平もそうでした。
では小名浜が4ヵ村の人工について、正徳元年(1711)の人口がわかりますのでお知らせしておきますと、何と城下町平以上で、領内随一の6086人を誇っていました。
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磐城平藩領知4郡と合計7万石がわかる |
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